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残しておきたい言葉⑨池田晶子
2016-11-11 Fri 08:39
 生きている不思議、愛とは、宗教とは、人生とは…。
 哲学者の池田晶子さんの珠玉の言葉

「暮らしの哲学」より

自分であり自分でない体

・とくに現代人は、体は「自分」もしくは自分の「もの」で、自分の意志でどうこうできるものだと思っています。
・いや何よりも驚くべきことは、なんと、体は自分が作ったものではないということだ。自分が作ったものではないものが、自分の意志を超えているのは、当たり前のことなのだ。
・自分が作ったのではない、では誰が作ったのかといえば、言うまでもなく「自然」です。自然は人間の意志を、どうこうしようと賢しらな意図を、完全に超えている。なるほど肉体を自分だと思うのは、ある意味では間違っていない。しかし、その自分であるところの肉体は自然だ、自然は自分を越えている、ゆえに自分は自分であり自分でないという不思議の構造に気がつくと、これはこれでまた広い所へ出られます。

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「人生のほんとう」より

自分の意志では生きていない

 つまり、自分が生きているということ自体が、すでに自分の意志ではない。自分の意志を超えている、超越的な出来事だということに気がつくのです。自分が今ここにいること自体が超越的な出来事だと気がつけば、超越的なものは自分がいることそのものなのだから、自分の外のどこかに超越的な神を立てる理由はなくなりますね。

「信じる」から「気づく」へ

 超越的なものは内在している。内在するというよりも、正確にはこのこと、この事態そのものが超越的と言ってもよいし、超越的でないと言ってもよいし、超越的内在、要するに何だかわからない。その何ものかがこうであるわけです。人生という、われわれが今ここに生きてあるというこのこと自体が、恐るべき絶対的出来事だということに、「あっ」と気がつく。そのことに気づかせる一種の仕組みなのでしょうね。
 それに気がついてしまうと、自分というのはイコール絶対的存在だと気がつくわけです。これに気がついてしまったら、もう神様などは要りませんね。べつにいてもいいですけど(笑) 本当を言うとどちらでもいいのですけど、そのような、非常に面白い物事の気づき方、気づかせ方をする禅というものは、その意味で無神論と言って良いのだと思います。あるいは、宗教を超えた超宗教と言ってもいいのかな、超越的なものを拝むという部分は決してないわけですから。

心理的落とし穴

 普通「孤独」と言うと、社会対個人の構図の中で考えられていて、「社会から疎外された個人の孤独」という文脈で言われますけれども、これもまったくの筋違い、間違った構図にはまっていますね。そういう意味での個人の孤独というのは虚構で、これもまあ作りごとです。一種の心理的落とし穴のようなものがあるのでしょう。そういう所にはまっていたいという人も、けっこういるようです。でも、宇宙大の孤独という零地点、何物でもない零ポイントを、必ず一度は通過しなければ、こういった嘘っぱちは見抜けないわけです。そういう所を通過するからこそ、社会共同体とまで言わなくても、通常の人間関係、親子、恋人、夫婦とか、そういった人間関係の嘘も見抜くことができるようになります。

愛と孤独

 「零地点の孤独」というものを知っていれば、通常の孤独によって求められる友人や恋人、一種の寂しさから求められる、そういう所有欲のようなものの嘘というのも、よく見えてきます。そういう嘘の場合でも、「愛」という言葉を使ったりするのでしょうが、それはたぶん本当の愛ではない。おそらく、自分が誰でもないという零地点にのみ、本当の愛というものは発生するのだと思います。
 
 愛とは、なにがしか対象があって発生するものだと人は思っているようですが、そうではなくて、それは自分の側の状態なのではないか。「愛を失う」というような言い方をしますが、失われるようなものはたぶん愛ではない。自分がその状態であれば、なくなるはずはないのですから。それをもうちょっと論理的に言ってみると、「自分は誰でもない」、それを裏返して言うと「誰でもある」、つまり「すべての人が私である」というような境地なのでしょう。お釈迦様なんかが達せられた境地というのは、そういうものなのかな、と。そういう場合にだけ、「愛」という言葉を使っても嘘ではないのかなと私は思います。わかりませんけどね。だから愛と孤独は、実は相反するものではなくて、同じ物なんでしょう、同じその状態のことなんでしょうね。

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残しておきたい言葉⑧「原罪とは・・・」
2016-09-04 Sun 12:56
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前回に続き、これも聖書関連の本の中から、たどり着いた言葉

原罪とは何か…

P51から引用

 「原罪というのはキリスト教の用語で、ユダヤ教では原罪と言わないと思います。強いて言えば、生きるべく造られていた にもかかわらず、死を選んでしまった、ということですね。これがぼくの原罪の理解なのです。知恵を得て、死を宿命づけられ、エデンを追われた人間。 エデンならぬ現世では死ぬ者として生きなければならない。この宿命が原罪だと思います。」

人間が自ら「死を選んだ」と言うくだりに、なんだか納得
「選んだ」のなら、引き受けて生きるしかない

クリスチャンの友人から聞いた原罪の説明は、イマイチ納得できなかったけど
この意味なら、胸にストンと落ちた

そもそも肉体を持って生まれてきたら
生まれ落ちたその日から、死に向かって生きていくことになるわけで
友人の言う、イエスの贖いによって永遠のいのちが約束されたとか言われても
まったく、ピンと来ない
肉体が滅びることなく、文字通り永遠に生きられるようになるとは思えない

でも、この「永遠」の意味が、私が思うのと違うのだったら?

聖書はもともとヘブライ語で書かれていた
古代ヘブライ語には過去形がなく、すべて現在形であり物語は横に並んでいた
ところが、時制を持つギリシャ語訳から時間軸が導入され、ヘレニズム流の縦の歴史が始まったそうな

旧約聖書がギリシャ語訳されたとき
①過去を語る文書(律法)
②現在を語る文書(文学)
③未来を語る文書(預言文書)
と、ギリシャ式の時間軸に並べかえられたという

ヘブライ語で読むと、創世記の物語は、過去のことではなく、いまだ終わっていない…ということになる
永遠のいのちの意味も違ってくる

時間軸で考えない、無時間=永遠、という意味なら?

肉体には過去も未来も無く、「いまここ」にしかない
過去や未来は、人間が想像して考えるものに過ぎない

哲学者の池田晶子さんの言う
「死なんてものは、どこにも存在しない」という真理からすれば
死は存在しない=永遠のいのち、ということになるのかなぁ?


原罪の意味についてネットで検索しているうちに、さらになるほど~と思ったのがコレ

まつたけのブログー原罪とは何か?知恵の実とは何か?

まつたけさんの解釈の方が、さらにしっくり来る

原罪とは、自他の分離意識からくる苦しみであり
自意識の誕生により、不安や恐怖、孤独感と寂しさ、恥や怒りといった
あらゆる不幸が生じるようになったのだと…

前回取り上げた、中村うさぎさんの言葉にも通じる

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残しておきたい言葉⑦「聖書を語る」から
2016-08-03 Wed 16:21
世界で一番古い書物、聖書
いつかじっくり読んでみたいと思っていた

でも、独特の言葉や、表現が難解な箇所があるので
ただ読んだだけでは、意味がわからなかったりして
本格的に読めないでいた

聖書はキリスト教の経典(正典)だけど
調べてみると、宗派もいろいろで
カトリックとプロテスタントだけじゃなく
いわゆる新興宗教みたいなのもあるし
聖書の解釈もいろいろ

でも、世界の大ベストセラーであり
これほど世界中で読まれている書物はないので
興味があるところから、ぼちぼち読んでいる

最近読んだ、聖書関連の本の中に
なるほど~と共感した言葉があったので
残しておきたい言葉シリーズに記録しとこう

「聖書を語る」から中村うさぎさんのあとがきの一節

以下引用

 「人間は『個』であると同時に『全体』である。『個』を失っては生きていけないし、『個』であり続けるだけでも生きてはいけない。だが、他者と繋がって集合体になろうとすると、必ず『個』と『個』のぶつかり合いが生じて、そこに苦しみや絶望が生まれるしくみになっている。それでもやはり、心のどこかで『繋がり』を希求する想いは断ち難く、傷だらけになりながらも他者を求め、拒絶されては煩悶する。
 この『他者と繋がりたいと願いながらも、互いの拒絶してしまうパラドックス』こそが人間の根源的な苦しみではないかと私は考え、旧約聖書にしるされた『原罪』、すなわちアダムとイヴが食べた『知恵の木の実』とは『他者の発見=自意識の獲得』ではないか、という仮説に到るのである」

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先日、友人Nにあったとき、神様を信じるってどういうことなんだろうね
…という話になった
彼女も私も特定の宗教を信じてはいないけど
宗教がどのように始まり、人間にとって宗教とは何か
ということについては興味は尽きないので
会うとよく話題になる

この日、冒頭の話題になった時、Nが言った言葉
「神を信じるってさぁ、ようできるよね。自分を信じるのも難しいのに…」

おぉー言い得て妙

また会えた時、この話の続きをしよう


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残しておきたい言葉⑥「あいまいさを大事に」
2016-05-10 Tue 09:10
朝日新聞「明日も喋ろうー言葉、届いてますか」の記事
ホスピス「野の花診療所」の内科医徳永進さんの
「あいまいさを大事に」
という言葉が胸に刺さった

私は物事をあいまいにするのが苦手だ
何事も竹を割ったようにスパッと白黒つけてすっきりしたくなる

そんなだから、人間関係もあいまいにしておけなくて
悩んでいたら
友人に「ぶきっちょ(不器用)」と、よく言われた( ̄▽ ̄;)

正しいか、正しくないか
良いか、悪いか
好きか、嫌いか

世の中そんなふうに、分けられないことのほうが多いのにね( ̄ー ̄;)

がん告知も、本人にはっきり告知する方が良いと思っていたけど
「あいまい」なのもいいかも?
ようは、人それぞれで正解なんてないのかな

徳永さんは、がん告知について、こう言っている
以下、新聞より引用

 研修医時代、「しない」のが正しいと教わったが、その後、欧米流の「する」が当然になった。だが、患者の疑心暗鬼を招いたり、生きる気力を奪ったり。どちらも失敗した。
 悩んでいたころ、山陰海岸の民宿のある女将が、腸閉塞を起こして運ばれてきた。進行性胃がんを、関西の病院で手術したばかり。医師は告知していないのに、既にがんを知っていた。聞けば、前の手術後、病院の談話室で夫とこんな短い会話をしたという。

 妻「いけなんだか?」

 夫「たんぽぽのお茶、飲んどったのになあ」

 妻「ほんとかあ」

 医師が「告げる」のでも、家族が「伝える」のでもなく、何となく「伝わる」。「日本人の、はっきりさせない部分も何か味があるなあ」と気づいた。
 今は、知らないふり、漠然とした態度で看取りたいと望む家族に、「やりましょう」と応じている。
 絶対を疑い、あいまいさを大事にする。主義より、生活感ある言葉を生かす。
 「案外、それがちゃんと、大切なことが『伝わる』秘訣かもしれません」


なんとなく伝わる…かぁ。。。。

言葉にしない方が、ちゃんと「伝わる」ってことあるよなぁ
言葉にならないもの
言葉を超えたもの

人との関係も、そういう部分が大事なのかもしれないなぁ

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残しておきたい言葉⑤ガンジーの言葉に勇気づけられ
2015-07-05 Sun 15:19
今年も平和行事の夏が近づいてきた
生協の平和イベントに毎年参加するようになったのは
いつからだっただろう??

このブログを開設した2006年には
すでにそういう内容の記事を書いてるから
かれこれ10年くらいは、関わっているのかな

今年は今月、福山である市民平和行進と
8月に広島で開催される虹のひろばに参加する予定

平和行進に参加する組合員は年々減っていて
「暑い時期に歩くなんて…何の意味があるの?」
と言う、否定的な意見も出される

確かに、行進や戦争反対のシュプレヒコールに
反応してくれる市民の方はほとんどいない
世の中に影響を与えらえるわけでもないし
ほとんど意味がないのかもしれない

でも、平和を願い、戦争に反対する気持ちは
ただ思っているだけで、何も意思表示しないで黙っていたら
いつのまにか、戦争に加担してしまうかもしれない

機会があるなら、自分の意思を表明すること
そして、誰かと共有することに意味があるのだと思う

そんなことを悶々と思っているとき
素敵な言葉の贈り物をもらった

少し前に、某ニュース番組で話題になった
マハトマ・ガンジーの言葉


あなたがすることのほとんどは無意味であるが

それでもしなくてはならない

そうしたことをするのは世界を変えるためではなく

世界によって自分が変えられないようにするためである



おぉぉーーーーー
そうか、平和行進で歩くのは
世の中を変えるためではなくて
自分自身のためなんだ

世の中に流されて、自分を見失わないために…

そう思うと、なんだか勇気が湧いてくる

何かしないではいられない気持ちを
ただ歩くという行為で、納めることができるのだから


その他にも、勇気づけられるガンジーの言葉を
ここに残しておきたい


重要なのは行為そのものであって結果ではない

行為が実を結ぶかどうかは

自分ではどうなるものではなく

生きているうちにわかるとも限らない

だが、正しいと信じることを行いなさい

結果がどう出るにせよ

何もしなければ何の結果もないのだ





良きことはカタツムリのようにゆっくり進む

だから、自分のためでなく人々のために働く人は

いたずらに急がない

なぜなら、人々が良きことを受け入れるには

多くの時間が必要なことを知っているからだ



この「カタツムリ…」の言葉に、思い出した絵本がある




どんなに時間がかかっても、止められても
自分の足で、一歩一歩、自分の信じる道を歩く亀に
勇気づけられる

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